「最後の時間」
更新日:2018年12月31日
2ndアルバム「ポートレイト」収録
大学一年生の夏、1973年に金井克子さんが歌ってヒットした『他人の関係』を一青窈さんがカバーし、ドラマの主題歌としてボクと同世代の人たちにも広く浸透した。
シンプルな言葉でディープ&ハードなことを言っている。今までに何度も聴いたことのある歌だったが、ギター用のコード譜を作る時に歌詞をちゃんと見て、針で背中をツンツン突つかれているような衝撃を受けた。
ボクもこんな歌を作りたい!
沸々と内側から込み上げる衝動。
そしてこの「最後の時間」が出来たワケです。もともとは宮崎で活動する先輩フォークデュオ「マーシーサウザンド」のお二人の為に作った歌で、セルフカバーという形で自分のライブでも歌うようになった。
ボクには不倫の経験がない。当然といえば当然か。今年は不倫が流行りましたからねえ。入れ替わり立ち替わり、もうお腹いっぱい。『他人の関係リバイバル』はある意味、時代を先取りしていたのかも?!
それはさておき、曲を作るにあたり、経験がないことをあたかもその道のカリスマのごとく書かなくてはならない。それができるのが詞作の魅力でもある。ボクは幼少期から想像力には長けているほうだと思う。だから驚くほどに集中力が無い。逆だと思うでしょ?
というのも、常にあっちやこっちや頭の中の至る所であらゆる妄想が爆発していて、それらを回収するのに必死なのだ。
作業中に意識がそっちに行ってしまうと、そっちのほうが楽しくなってしまって空想の中に閉じこもってしまう。授業中も、読書中も、誰かと一緒にいる時も、こうして原稿を書いている時も、止まらない。不器用だから同時に二つはできない。だからどうしても楽しいほうに行っちゃうよね。
そこでよく勘違いされるのは、そんなに空想が広がるのならたくさんのステキなアイディアをお持ちなのでしょう、と言われることだ。実はそれもそうではない。頭の中に広がるのはとりとめのない、本当に何とも無いことばかりで、泡沫のように浮かんでは消える。それがヒントになることはある。大いにある。でも驚くような発明が、完成品としてポンと浮かんでくることはほとんどない。
たまたま拾った小さな種を育てていく作業、それが作品を作るということなのだ。
ボクのこれまでの作品のほとんどは、そんな妄想の産物であり、フィクションだ。小学生の頃、映画の脚本を書くことに熱中していたのも、頭の中で絶えず生まれる物語の種を拾い集めて、水をやり大事に育て、ひたすら書き留めていたに過ぎない。
創作とは、それをまとめていくこと。
この歌の場合、作り始めた時から根底にあったキーワードは、薄明かり、健全ではない交際、目線、の三つである。
そこから広がった物語は、それぞれの暮らしの隙間で逢瀬を重ねてきた男女が、薄明かりのバーで最後のひとときを言葉もなく過ごしている、という一幕。
この二人はあまり言葉を交わさない。息づかい、指の動き、視線で分かり合える。
本能的というか、動物的というか、男女とはそういうものではないか。
男には守るべき暮らしがあるにも関わらず、この健全ではないスリリングな関係も捨てられない、というエゴ。
妻に知られているというわけでもない。その後ろめたさすら快感なのかも知れない。
いっぽうの女には、一体どんな暮らしがあるのだろうか。
さあ、この歌の主人公である女は、あなた自身。壮絶な過去を描いてもいい。波乱万丈に生きてもいい。
歌の中でめいいっぱい狂気的な愛を愉しんでいただきたい。
「最後の時間」
作詞・作曲・編曲 長谷川万大
唇の熱さが伝わる 息継ぎよりも おくれて
つま先が動けば 店を出る合図(サイン)
夜の長さだけが教える 今宵の二人のダンス
言葉に意味はない 瞳で語る
せめて目線だけは そらさないで 涙かわくまで
すこし淋しげなのは あの日から 出会ったころから
グラスの氷が とけるまで 昨日の夢の続きを
月も隠れる時 あやしい雲になる
外した指輪が踊り出す 二人の指のあいだ
決して声に出さない 重ね合うたび
あなた 心だけは離さないで 最後の時間まで
ただの他人に戻る時までは 美しいままで
熱い口づけだけ 逃がさないで 最後の時間まで
ただの他人に戻る時までは 美しいままで