「時の流れよ、ゆるやかであれ」
更新日:2018年12月31日
2ndアルバム「ポートレイト」収録
実はこの歌、長谷川作品の中では二番目にはやい、一分半で出来た歌なのだ。
大学二年の夏休み。八月に入って間もなく二十歳を迎え、その節目のライブで発表する新曲を考えていた。長期の休みになると、イベント出演の関係で宮崎と福岡を往復しながら過ごすのが恒例。この時は福岡の寮の部屋に戻っていた。お盆の数日前だった思う。夜中だった。
そしてちょうどこの時期、祖母の体調が悪化していた。
そんな時だからこそ、出来た歌なのだと思う。自分で大げさに言いたくはないが、作った、というより、作らされたという感覚に近い。
特に誰かのために、とか、誰かを思って書いたわけでもなく無意識のつもりだったけれど、やはり誰よりもボクを応援してくれて、可愛がってくれていた祖母の存在は大きいのだ。
ひととおり書き終えて読み返すと、詞の一つひとつが、その端々がみんな全部、祖母と過ごした日々と重なり、鮮明に浮かんでくる。
そうしてこの歌を書いてすぐ、地元で毎年開催される灯籠流しのイベントに出演するため宮崎に帰った。
祖母もまだ辛うじて一人で生活できていたが、みるみる身体が弱り、その数日後には入院した。それから三週間ほどで、もう二度と会えなくなってしまった。実に呆気なかった。本当に呆気なかったけれど、ずっとそばにいた最期の三週間は壮絶だった。
薬のせいで髪の毛は失くなり、もともと小柄な身体がさらに小さくなっていった。特に辛かったのは、「せん妄」という症状。人によってさまざまだが、手術後や長い間病室に閉ざされていると、突然、日にちや場所が分からなくなったり幻覚が見えたりして、まるで別人のように豹変してしまう、いわゆる意識障害というもの。
発症したその日の夜の付き添いをしていたボクは、生きた心地がしなかった。あんなに大好きだった祖母が怖くて仕方がなかった。絶えず大声を上げてナースコールのボタン付きのコードをちぎれそうなくらい引っ張って振り回したり、お世話をしてくれる看護師さんにも、身内にさえも抵抗していた。弱っているはずなのに、とてつもなく強い力で服を掴まれることもあった。
ボクらはどうすることもできず、うろたえていた時、母の提案で、歌を聴かせることにした。変わり果てた祖母のそばへ行き、耳もとで「昴」を歌ってあげた。すると、いつもの祖母みたいに、褒めてくれた。やがて二、三日が経つと症状もだいぶ治まり、以前の状態に戻った。二十歳の節目のライブも無事に終わった。本当は、祖母もライブに来てくれる予定だったが、叶わなかった。耳もとで歌った「昴」が、祖母に聴かせた最後の歌になった。
あれから一年半の歳月が流れようとしているが、ここまで詳しく話したことは誰にもない。
いつも新しい歌が出来ると真っ先に祖母に聴かせていたが、あの時、生死の淵をさまよっていた祖母に、この新曲を聴いてもらう勇気はなかった。
一周忌が過ぎた去年の秋、福岡でのワンマンライブでこの歌を歌った。
ボクの住む町の自治会長さんも来てくださっていて、その方は超強面なのだが、終演後にボクのそばに来てこっそりと教えてくれた。
「三年前に亡くなった女房を思い出して、周りに気付かれないように泣いたよ」
大切な人が目の前で命尽きようとする時、見たこともない“何か”にすがる。そして、祈る。
もし、たとえば、もう少し時間があったなら、何かしてあげられたのではないかと、その“何か”を責める。
ありえないことだと分かっていながら、そう思うのが人の常である。
「時の流れよ、ゆるやかであれ」
作詞・作曲・編曲 長谷川万大
いくつも伝えたかったけれど ひとつも云えなかった
口にすれば みんなぜんぶ 粉々に散らばりそうで
僕の残りの 時間の中で あなたと過ごす日々は
ほんのわずかだってことは 痛いほど分かっている
しあわせを考えてた あなたの名前を呼べること
言葉もないひとときを 一緒に過ごせること
時の流れよ、ゆるやかであれ
まだ足りない まだ伝えきれない
長い旅を終える その時
笑ってくれたなら それだけでもいい
「むかし」にしてしまうこと それが とても とても こわくて
指先まで細くなった その手をにぎりしめている
心が風邪を引いただけだと 笑っている その目に
こぼれもせず光るだけの 叶わぬ夢の ひとかけ
どの星に語りかけよう この気持ちを打ち明けようか
時があなたを変えても 僕は変わらないと
時の流れよ、ゆるやかになれ
何もかもが ガラスの中に
閉じ込められてしまう前に
笑ってくれたなら それだけでもいい
いつか来る その時とは めぐり巡って訪れる 今のこと
だから 時の流れよ、ゆるやかであれ
まだ足りない まだ伝えきれない
長い旅を終える その時
笑ってくれたなら それだけでもいい
いくつも伝えたかったけれど ひとつも云えなかった・・・